大変個人的な所感なのだが、人間は皆、何かしらの分野においてうまくなりたいのではないかと思う。
- 音楽をやっている人は当然音楽の分野において
- スポーツをやっている人ならばスポーツ
- 勉強
- 仕事
- 芸術
エトセトラエトセトラ……。
例を挙げて行ったらおそらく際限がないだろう。
ゲーマーだってゲームでうまくなりたい、と思うはずだ。
さて、上達を望むのならばその分野において練習という時間を設けなければならない。
今回は練習の話は脇道に置いておき、一分でできる非常識な上達方法の話をしよう。
因みに断っておくが、『一分でできる』であって『一分で上達する』ではない。
写真に写る
結論から言ってしまおう。
何かの分野において上達を望むのならば写真に写ることがその助けになるだろう。
非常識な上達方法の話の前に少し写真に話をしよう。
最近カメラを買った。
そのため、いろいろなところで様々な写真を撮っている。
自分の場合は”旅するトロンボーン”、旅行先やジャムセッションに行ったときに『パシャパシャ』させているのだ。
そこで気づいたことがある。
写真で人物を切り取った場合、その分野に精通しているように見えるのだ。
人の写真を使うのはあれなので、自分が撮影された写真。
このころの自分はジャズを初めてまだ2年。
初めてジャムセッションに行った時の写真である。
そこに偶然カメラマンがおりその撮影した写真を貰ったものだ。
ジャズを初めて2年というのは結構時間が経っているように聞こえるのだが、そうではない。
この時期に自分の練習のために録音したmp3があるのだが、下手すぎて聴けるものではない。
というか、ジャズを初めて2年でバリバリ演奏ができる人がいたら教えてほしい。
そんな人には未だかつて出会ったことがない。
これは演劇の自分がモノローグを演じているときの写真。
大学時代、英語の勉強のために劇やらスピーチやらに挑戦していた時期。
音楽とは違い、大学以前にはそれらの分野に関わったことは皆無だ。
すなわち素人に毛が生えた程度のレベルなのである。
これらがもしも写真ではなくビデオである場合、おそらく……というより、確実にボロが出ているだろう。
だが、写真という視覚だけの限定的なイメージを切り取った場合……
何かできそうなやつに見えるのだ。
認知的不協和
非常識な上達方法の話に戻る。
『いくら写真の中でできそうなやつに見えたとしても実際の実力は変わらないじゃないか』
とか思われるかもしれないが、そうではない。
認知的不協和というものが発生し、それが上達の手助けになるのである。
認知的不協和とはざっくり説明すると矛盾した複数の認知を同時に抱えた状態のことだ。
そして認知的不協和が発生している状況というものは人間にとっては非常に不快なのである。
なので、この不協和を改善するために人間の行動が変化する。
この写真の場合……
認知1. 初めてジャムセッション。まだ下手くそ。
認知2. 写真の中の自分はジャズができそうである。
“下手くそな自分”と”できそうな自分”、2つの矛盾する認知が発生するのである。
この矛盾を解消するためにはおそらく方法は……
写真にいたずらして下手くそに見えるようにすること
ではないだろう。
下手くそな自分を良くすることである。
『それでどこまでうまくなれるのか?』
このように聞かれると少し困ってしまうのだが……。
今の自分は世界のジャムセッションを回ったりしている。
それができる程度にはおそらく上達するであろう。
さあ写真に写ろう
写真というものは大変面白いものだ。
状況を説明しないとその写真を見る者によって美的解釈がなされる場合が多々ある。
- ネットサーフィンをしている仕事の同僚を撮れば、仕事のための調べ物をしているように見える
- サッカーで自分のミスで相手にボールがわたってしまったところを撮れば、相手の攻撃を必死に守っているように見える
- 音楽の演奏中に盛大に音を間違えても、一心不乱に音を奏でているように見える
実際はどうでも、写真の中のその人はしっかりやっているように見えるのだ。
そして認知的不協和が発生しそれを改善する方向に自分自身が変わっていくのだ。
写真に写ると上達する。
これが一分でできる非常識な上達方法だ。